日本の唱歌・童謡「夏は来ぬ」

今回は、有名な夏の歌の一つである「夏は来ぬ」を解説いたします。

『夏は来ぬ(なつはきぬ)』は、1896年に発表された作詩:佐佐木信綱さん、作曲:小山作之助さんによる日本の唱歌です。

日本の歌百選にも選ばれています。

制作経緯

小山さんが先に曲を作り、曲に合わせて佐佐木さんが作詩をしたそうです。

当時、軍歌や唱歌の詩の多くは7・5調で作られていたそうで、小山さんが作曲した「夏がきぬ」のメロディーも7・5調の詩が当てはまるように作られていたそうです。

小山さんは意識的に当時の作詞の音数律を意識して作曲されたと言われています。

「〈夏は来ぬ〉はなぜ傑作か 」 村尾忠廣 著より

作詞者について

佐佐木 信綱(ささき のぶつな)
1872年7月8日〜1963年12月2日
三重県出身
日本の歌人・国文学者。文学博士。日本学士院会員。日本芸術院会員。

三重県鈴鹿郡石薬師村(現、鈴鹿市石薬師町)に歌人であった佐々木弘綱さんの長男として生まれました。

父である弘綱さんの教えによってわずか5歳にして作歌しました。

1884年に、東京帝国大学文学部古典講習科に進学。

『元暦校本万葉集』や『西本願寺万葉集』など日本各地を巡って万葉集の発掘を行い、万葉集の基礎資料を数多く編集しました。

「英訳万葉集」を通じて海外にも万葉集を伝えたそうです。

また、歴史上、埋もれていた歌集・歌謡書や歌人の発掘も行ったそうです。

作曲者について

小山 作之助(こやま さくのすけ)
1864年1月19日〜1927年6月27日
新潟県出身
日本の教育者・作曲家。日本教育音楽協会初代会長。

越後国頸城郡潟町村(現、新潟県上越市大潟区潟町)に生まれました。

1880年に家族に無断で上京し、大学予備門を経て築地大学(現、明治学院大学)へ入学し、数学と英語を学びました。

1883年には、文部省音楽取調所(のちの東京音楽学校、現、東京藝術大学)に入学し、伊沢修二さんに師事しました。

小山さんは首席で卒業した後も、東京音楽学校校長となった伊沢さんの元で、教授補助として木教壇に立ちました。

小山さんの教え子には、のちに作曲家となる瀧廉太郎さんもおり、滝さんにドイツ留学を勧めたのは小山さんであると言われています。

1904年には山葉楽器(現、ヤマハ)の顧問にもなり、楽器製作技術も指南したそうです。

小山さんは「日本音楽教育の母」とも呼ばれており、その作品は童謡、軍歌、校歌など多岐に亘り、全部で1000曲を越えるといわれているようです。

しかし、当時の 日本情勢下で「作者不詳」として発表されたものが多く、実際に作曲した曲名や曲数は未だ分からないそうです。

調性と拍子

ハ長調(C)
4分の4拍子

五音音階を基調とする旋律ですが、冒頭の一回のみ第四音が使われています。

歌詞

卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

橘の 薫るのきばの
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ

楝(おうち)ちる 川べの宿の
門(かど)遠く 水鶏(くいな)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(くいな)鳴き 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ

この記事を書いた人

金藏 直樹

作編曲家・ピアニスト/映像クリエイター/フォトグラファー/DNA心理学
貧しい離婚家庭で育ち、独学で音楽活動を始め、今日に至っています。
【主な作品】舞台『鬼切丸伝(主題歌)』ミュージカル「星の王子さま」「銀河鉄道の夜」映画『それぞれのヒーローたち』