芸術家にとって、「愛」は音楽やアートなど作品を生み出すエネルギーとして、今も昔も深く関わってきます。
今回は、「交響曲第5番嬰ハ短調」(グスタフ・マーラー)を取り上げます。
グスタフ・マーラー

オーストリアのウィーンで活躍した作曲家・指揮者です。
ユダヤ人である両親から第二子として生まれます。
両親には14人の子供が産まれていますが、半数の7名は幼少時に病死し、第一子も亡くなったため、長男として育てられました。
代表作
交響曲第1番「巨人」
交響曲第2番「復活」
交響曲第5番嬰ハ短調 ←マーラーの交響曲のなかで人気が高い作品です!
交響曲「大地の歌」 などがあります。
活躍時期
1860年~1911年(51歳没)
この時の主な世界の出来事
アメリカ南北戦争、リンカーンが奴隷解放宣言を発表する
第1回オリンピック大会がアテネで開かれる
ライト兄弟が航空機による初飛行に成功
日本韓国併合などです。
この時の主な日本の出来事
日米修好通商条約 桜田門外の変の江戸時代幕末から日露戦争勃発くらいまでです。
同時期の作曲家
音楽史ではロマン派、後期ロマン派に属しており、
ドビュッシー、ラヴェル、ラフマニノフ、エリック・サティ、シュトラウス、ブルックナーなどがいます。
「交響曲第5番嬰ハ短調」について
特に有名な交響曲第5番の第4楽章アダージェット(別名「愛の楽章」)はアルマへの愛の調べとして書かれました。
この曲は、全部で5楽章ありますが、当初の作曲予定では4楽章構成だったそうです。
この曲の作曲中に同じ作曲家であるアルマと出会い、電撃婚をしました。
マーラーと親しかった指揮者よりますと、
「この楽章はアルマへの愛情を込めて作曲された音楽でプロポーズに相当するもの。アルマはそれを受け入れた」
と話していたそうです。
以上から、作曲途中の交響曲に無理やりねじ込んだことになります。
実際、聴いてみても1~3楽章と4楽章の関連性も見られないそうです。

アルマは第5交響曲を初めて聞いた際、褒めつつも、フィナーレのコラールについて「聖歌風で退屈」と評したそうです。
マーラーはこの時、なぜかユダヤ教からカトリックに改宗したそうです。
そして、その姿に惹かれていたとアルマは述べていたそうです。
愛は長きに渡る信仰をも変えてしまうのでしょうか?
1902年3月、マーラは41歳、アルマ23歳の年の差22歳で二人とも初婚だったそうです。
マーラーとアルマ

アルマは当初、マーラーを嫌っていたようです。
アルマは多くの男性にモテていました。
一方のマーラーには、恋愛の噂や仕事での不遜な態度という悪評が立っていたそうです。
アルマは、そんなマーラーの求愛に応えて結婚を承諾しました。
結婚後、マーラーはアルマに献身的であることを求め、彼女自身が作曲することを禁止するなど命令的な態度を取ったそうです。
アルマを屈服させるほどの⽀配欲がマーラーにはあったのでしょうか。
楽団員からは、リハーサルで我慢できなくなったときに床を足で踏み鳴らす、音程の悪い団員やテンポが揃わない時は、その人に向かって指揮棒を突き出すなどしていたようです。
その一方で、大変に活動的で明るい。
自分の責務を果たさない人間に対してのみ、激怒する。
非常に親切で、若く貧しい芸術家やウィーン宮廷歌劇場への様々な寄付をしていたそうです。
「無名の人間には極めて寛大であり助けを惜しまなかったが、思い上がった人間には冷淡だった」
「真っ暗闇でも、その存在で周囲を明るく照らした」
そんな証言が残っています。
この強い正義感や支配欲は、長子として育てられたことも影響していると思います。
晩年、精神を病み、ジークムント・フロイトの診察を受けました。
アルマが自分のそばにいることを一晩中確認せざるを得ない強迫症状と、崇高な音楽を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かび、心が乱されるという神経症状に悩まされていたそうです。
フロイトは、それが幼児体験によるものであり、妻は父を求め、夫は母を求めていると診断したそうです。
まとめ
以上から、アルマとの出会いが、「交響曲第5番嬰ハ短調」を今日私たちが聴いている形としたようです。
そして、絶頂の愛の表現として作られた第4楽章が、マーラーの中でも一番人気ということから愛の影響力を強く感じました。
晩年も、アルマへの愛が、マーラーの創作意欲を左右したところをみると、愛のエネルギーの怖さも同時に感じました。
実は、私も妻に曲を送っていますのでマーラーの気持ちはとてもわかります。
参考までに貼っておきます↓
「あなたの恋人に音楽のプレゼントはいかがですか?」
こんな依頼あるんですかね(笑)